第69回 広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式
2014年8月7日 日常 コメント (5)昨年被曝した祖父が亡くなり、こちらの慰霊碑に刻名されたということで参加してきました。
それについていろいろと。
それと珍しくクッソ真面目な内容です。
できれば是非読んで欲しいです。
・5:30
起床。
生憎の雨でした。
この8月6日が雨になるのは43年ぶりとのこと。
TVを点けてみると大雨の中、既に会場には人が結構集まっている模様。
6:30開場で8:00開始という日程でしたが、これには驚き。
急いで支度をして6時過ぎには会場に着きました。
・6:30
雨の中、テントの席を確保し開式を待ちます。
この日の参加者は4万5千人を超え、外国人の方も多く来られたそうですね。
自分はここで、インド人の記者を名乗る方からいろいろと訊かれました。
たどたどしい英語で頑張って会話しました。
英語力って大事ですね。
・8:00
開式。
原爆死没者名簿奉納、式辞と進みます。
・8:15
黙祷。
・8:16
平和宣言。
その後、内閣総理大臣、広島県知事、国際連合事務総長の挨拶が続き、閉式したのが9時前。
閉式後に自分たちも前の慰霊碑へ行ってお祈りを。
ここでまたロシア人記者に絡まれました。大変でした。
・9:30
遅めの朝食。
・11:00
ホテルをチェックアウトし、会場近くの資料館へ。
いろいろと見てきましたよ。
いろいろと。
・12:00
国泰寺へ墓参りに。
結構な道のりで、道中はタクシーの運ちゃんが戦争体験について語ってくれました。
この内容がとても濃かったので後述で少し長めに書いてみようと思います。
・13:30
お昼を食べて、お土産を探しに駅前を散策。
MtG勢の皆さんのためにもみじまんじゅう買いました。
略してもみまんです。もみまん。
数に限りが有りますので、エンカウントした人から先着順です。
貰えなかった方はごめんなさい。
・16:09
広島発。
・20:11
新横浜着。
おつかれい!
ということで完。
なんだか急に決まった広島行き。
とりあえず無事に帰ってこれました。
車椅子の祖母と一緒の行動で時間が無かったこともあり、観光とかは全く出来ず、楽しかったというとそうではないんですが、とても有意義な時間を過ごすことができました。
開式の前に近くの席の人と話したり、平和宣言に込められた思いだったり、資料館の見学だったり。
多くのことに触れ、自分の中でとても考えさせられました。
一番はタクシーの運ちゃんの戦争体験。
下記に綴ってみようと思います。
当時小学1年生だったという彼は、爆心地から2.2km離れた呉市で被曝したといいます。
呉といえば軍港で、海軍工廠に出向いていたということでした。
今でもキノコ雲が上がっていく光景は忘れられないと。
原爆投下から少しの後に、日本は敗戦という形で戦争を終わらせることになりましたが、終わってからは今度は食糧難に苦しんだといいます。
彼は6人兄弟で、両親と合わせて8人ともなると、一家分の配給じゃとても足りなかったようです。
ついに配給も満足にされなくなると、「こうりゃん」というものを食べて飢えを凌いだと語ってくれました。(調べてみたらモロコシの一種で、要するに家畜の餌みたいです。)
ひもじい思いをしながらも、ほとんどそれで暮らしていたみたいです。
そんな彼が、こう語ってくれました。
「今の日本は食糧難になっても、今の自分はああいう時代を生きてきたから大丈夫だが、若い世代は無理だろう。それこそ飢えるか争うかで全滅したっておかしくない。近いうちに朝鮮で戦争が起こるだろうが、日本はどういう形であれ関わってしまうだろう。自分から仕掛けることはないにしろ。でもこれは絶対にあかん。何も生み出さない。」、と。
とても重みがありました。
我々がいう世界平和とは確実に違う重みです。
これが戦争を体験した生の声ですね。
自分の祖父も、あまり多くは語らなかったのですが、少しばかりの体験談を。
祖父は爆心地から1.2kmのところで被曝しました。
建物の影からでも光がすごかったといいます。
そして爆風によって飛散したガラス片を一身に浴び、倒壊した家屋の下敷きになり意識を失ったそうです。
その後、誰かによって赤十字病院の玄関まで運ばれた祖父は、行く宛もなくそこで4日間もの間過ごしたそうです。
近くの水は飲んではいけない(おそらくは汚染水でしょう)という教えのもと飲まず食わずのなか、誰かがみかんの缶詰を食べた残り汁を飲ませてもらった時は感涙でしょっぱかったくらいだと。
あれ以上うまかった飲み物はないと。
無事にその後、両親に引き取られた祖父は、戦後の食糧難にはやはり苦しんだといいます。
ここからはもうほとんど知らないのですが。
原爆症によるガンに苦しんだ祖父は、去年亡くなって葬儀をしましたが、棺桶からは遺骨と一緒に燃え残った小さなガラス片が見つかったのを今でも覚えています。
直接体験したわけではないので正直まだ実感はないのですが、これらの体験談から戦争の凄絶さを垣間見ることが出来ました。
それによって戦争の放棄を、世界平和を強く訴える人の気持ちも以前よりは理解できたかのように思います。
きっとこうした記事を書いているのも、少しでもいいから知ってもらいたいと思う気持ちからでしょう。
次の世代に語り継ぐ、とTVでは何回か耳にしましたが、こういう場でとりあえず残しておければとも思います。
今まで特に何も考えずにこの8月6日という日を過ごしてきました。
きっとみなさんもそうなんじゃないかなと思います。
ですが、この日を堺に自分の中で変わったことが確実にありました。
中継を見た人はわかると思いますが、こども代表の平和への誓い、あれこそがシンプルであり自分たちが一番大事にすることである気がします。(内容全文が載ってるパンフレットもらいましたので興味のある方は見せられます。)
どうか皆さんも今一度、平和について考えてみて頂ければと。
それについていろいろと。
それと珍しくクッソ真面目な内容です。
できれば是非読んで欲しいです。
・5:30
起床。
生憎の雨でした。
この8月6日が雨になるのは43年ぶりとのこと。
TVを点けてみると大雨の中、既に会場には人が結構集まっている模様。
6:30開場で8:00開始という日程でしたが、これには驚き。
急いで支度をして6時過ぎには会場に着きました。
・6:30
雨の中、テントの席を確保し開式を待ちます。
この日の参加者は4万5千人を超え、外国人の方も多く来られたそうですね。
自分はここで、インド人の記者を名乗る方からいろいろと訊かれました。
たどたどしい英語で頑張って会話しました。
英語力って大事ですね。
・8:00
開式。
原爆死没者名簿奉納、式辞と進みます。
・8:15
黙祷。
・8:16
平和宣言。
その後、内閣総理大臣、広島県知事、国際連合事務総長の挨拶が続き、閉式したのが9時前。
閉式後に自分たちも前の慰霊碑へ行ってお祈りを。
ここでまたロシア人記者に絡まれました。大変でした。
・9:30
遅めの朝食。
・11:00
ホテルをチェックアウトし、会場近くの資料館へ。
いろいろと見てきましたよ。
いろいろと。
・12:00
国泰寺へ墓参りに。
結構な道のりで、道中はタクシーの運ちゃんが戦争体験について語ってくれました。
この内容がとても濃かったので後述で少し長めに書いてみようと思います。
・13:30
お昼を食べて、お土産を探しに駅前を散策。
MtG勢の皆さんのためにもみじまんじゅう買いました。
略してもみまんです。もみまん。
数に限りが有りますので、エンカウントした人から先着順です。
貰えなかった方はごめんなさい。
・16:09
広島発。
・20:11
新横浜着。
おつかれい!
ということで完。
なんだか急に決まった広島行き。
とりあえず無事に帰ってこれました。
車椅子の祖母と一緒の行動で時間が無かったこともあり、観光とかは全く出来ず、楽しかったというとそうではないんですが、とても有意義な時間を過ごすことができました。
開式の前に近くの席の人と話したり、平和宣言に込められた思いだったり、資料館の見学だったり。
多くのことに触れ、自分の中でとても考えさせられました。
一番はタクシーの運ちゃんの戦争体験。
下記に綴ってみようと思います。
当時小学1年生だったという彼は、爆心地から2.2km離れた呉市で被曝したといいます。
呉といえば軍港で、海軍工廠に出向いていたということでした。
今でもキノコ雲が上がっていく光景は忘れられないと。
原爆投下から少しの後に、日本は敗戦という形で戦争を終わらせることになりましたが、終わってからは今度は食糧難に苦しんだといいます。
彼は6人兄弟で、両親と合わせて8人ともなると、一家分の配給じゃとても足りなかったようです。
ついに配給も満足にされなくなると、「こうりゃん」というものを食べて飢えを凌いだと語ってくれました。(調べてみたらモロコシの一種で、要するに家畜の餌みたいです。)
ひもじい思いをしながらも、ほとんどそれで暮らしていたみたいです。
そんな彼が、こう語ってくれました。
「今の日本は食糧難になっても、今の自分はああいう時代を生きてきたから大丈夫だが、若い世代は無理だろう。それこそ飢えるか争うかで全滅したっておかしくない。近いうちに朝鮮で戦争が起こるだろうが、日本はどういう形であれ関わってしまうだろう。自分から仕掛けることはないにしろ。でもこれは絶対にあかん。何も生み出さない。」、と。
とても重みがありました。
我々がいう世界平和とは確実に違う重みです。
これが戦争を体験した生の声ですね。
自分の祖父も、あまり多くは語らなかったのですが、少しばかりの体験談を。
祖父は爆心地から1.2kmのところで被曝しました。
建物の影からでも光がすごかったといいます。
そして爆風によって飛散したガラス片を一身に浴び、倒壊した家屋の下敷きになり意識を失ったそうです。
その後、誰かによって赤十字病院の玄関まで運ばれた祖父は、行く宛もなくそこで4日間もの間過ごしたそうです。
近くの水は飲んではいけない(おそらくは汚染水でしょう)という教えのもと飲まず食わずのなか、誰かがみかんの缶詰を食べた残り汁を飲ませてもらった時は感涙でしょっぱかったくらいだと。
あれ以上うまかった飲み物はないと。
無事にその後、両親に引き取られた祖父は、戦後の食糧難にはやはり苦しんだといいます。
ここからはもうほとんど知らないのですが。
原爆症によるガンに苦しんだ祖父は、去年亡くなって葬儀をしましたが、棺桶からは遺骨と一緒に燃え残った小さなガラス片が見つかったのを今でも覚えています。
直接体験したわけではないので正直まだ実感はないのですが、これらの体験談から戦争の凄絶さを垣間見ることが出来ました。
それによって戦争の放棄を、世界平和を強く訴える人の気持ちも以前よりは理解できたかのように思います。
きっとこうした記事を書いているのも、少しでもいいから知ってもらいたいと思う気持ちからでしょう。
次の世代に語り継ぐ、とTVでは何回か耳にしましたが、こういう場でとりあえず残しておければとも思います。
今まで特に何も考えずにこの8月6日という日を過ごしてきました。
きっとみなさんもそうなんじゃないかなと思います。
ですが、この日を堺に自分の中で変わったことが確実にありました。
中継を見た人はわかると思いますが、こども代表の平和への誓い、あれこそがシンプルであり自分たちが一番大事にすることである気がします。(内容全文が載ってるパンフレットもらいましたので興味のある方は見せられます。)
どうか皆さんも今一度、平和について考えてみて頂ければと。